書くこと

忘れてしまう前に

20231114

 子どもの居る友達や知り合いの家に行くと、子どもの描いた絵がよく壁に飾ってある。


 中には子どもが描いたと思えない上手な絵や、子どもだからこそ描ける自由な表現に感心するものもあるけれど、いくつかは白紙にクレヨンの線を少しだけ走らせただけの絵とも落書きともいえないもので、飾ってある意味がよく分からなかった。

 けれども、昨日、自分の子どもが保育園で初めて描いてきたそんな絵を見て、思わず壁に飾りたくなった。

 

 話は変わるが、僕は音楽を聴くときに、友達や知り合いが作った曲だからとか、作った人のことを知っているからといって、好意的に聴くこと(聴けること)はほとんどない。

 友人や知り合いが作った音楽、それも自分がその良さを分からない音楽がSNSのタイムラインに流れてくるたびに、「反応しないと相手に悪いのではないか」と思ってしまい、そして見なかったふりをするたびに、相手に不誠実な態度を取っているような気がして辛い(Twitterを使わなくなった理由のひとつでもある)。 

 自分にとって「好きな音楽」とは、「聖域」のようなものだと思う。同時に美意識や価値観の表明でもあったと思う。無心で身を委ねられたり、真に美しいと思う音楽でないと、好意を表明できなかった。

 好きな音楽が特別なものであるからこそ、頭では「友人知人の創作や活動を応援しよう」と思っていても、いざ音楽と向き合うと「人」と「音楽」を切り離して考えてしまう。その人のことをいくら好きであっても、その人の作る好きでもない音楽を応援できない、切実さがあった。好きでもないものを好きといえない、頑なさがあった。

 あるいは、その人と繋がっていたいと思うからこそ、「どうしてもっと良い音楽を作って応援させてくれないのか」と勝手に憤ることもあった。「好きな人」と「好きな音楽」の板挟みになっていたのだと思う。

 

 昨日、自分の子どもの描いた絵ともいえない絵を見たとき、クレヨンを力いっぱいに握って描く生き生きとしたエネルギーや喜びが絵の上にあるような気がして、子どもの姿が絵の上に見えるような気がして、とても嬉しく感じた。その絵がただそこにあるだけで嬉しかった。机の上に置かれた絵を見るたびに頬が緩んだ。そして、よく見えるように壁に飾った。

 

 思い出したことがふたつある。

 妻は時々子どもに服を選ばせる。娘は1歳で、服の組み合わせなんて分からないから、上下ちぐはぐに服を選ぶ。それでも、妻は「子どもが選んだ服だ」と嬉しそうに、外へ連れていく。そのちぐはぐな服を着せたまま、近所のママ友に会いに行く。

 父は僕のライブをよく観に来る。妻のライブにもよく来る。若いころにバンドをやっていたので、音楽が好きなのだと思っていた。あるとき、実家に帰省する際に、妻と僕であるミュージシャンのライブを観にいくことになった。父もてっきり行くと思い込んでいたら、当然のように行かなかった。行く理由が分からないようだった。

 

 そのとき、妻や父にとって、「服」や「音楽」そのものにあまり意味はなく、子どもやその妻の選択や表現を肯定し、生き生きとしている姿を見ていたのだと、喜んでいたのだと、ようやく気がついた。

 

 もうひとつ思い出したことがある。

 先日5年ぶりにライブをするにあたり、何年ぶりかに自分の作った曲を聴いた。これまで過去の自分が作った曲は「好きな音楽に近づこうとして辿り着けなかったもの」であって、拙く思えていた。だから、恥ずかしくて自分の曲を聴くことができなかった。

 ただ、ライブの練習をするために何度も繰り返し聴き、ギターや歌詞を確認していると、そこには憧れだけではなく、間違いなく過去の自分が心地よく感じて選んだ音やリズム、そのとき抱えていた気持ちが表れていることが分かった。

 そうやって毎日自分の曲を聴き、歌を歌い、ギターを弾いているうちに、はじめて「他者」として過去の自分と向き合い、肯定できたような気がした。

 

 インタープリターの和田夏美さんの言葉が、自分の中で反響し続けている。

 

 その人の世界の中にあるものをただ「ある」って言っていきたいというか、「あるね!」って一緒に言いたいみたいなところがあって、それを大事にするための方法やメディアや場やワークショップだったり、遊びだったり、ゲームだったり、何でも良いですけど、そこから耕されるその人の「ある」を一緒に見つけて世に置いていきたいというか。
 置いて、それで遠くの誰かと「あっ、それってあったんだ」って一緒に言うっていうか、そういうことをすることで一人ひとりの中の生き生きとか、一人ひとりの「ある」を肯定していくプロセスを得ながら、共に在りたい。

 

 自分の「好きな音楽」は自分にとって聖域であり、「信教」にも近いと思う。やすやすと手放せるものではない。一方で、他者には他者の聖域があり、信教があるのだと思う。

 そして、それを選びとる感性がその人の世界の中にはある。僕が音楽を聴いたときに「好き」だと分かるように、誰しもが何かに響く感性を持っていて、それは他者のジャッジから離れたところにある。

 

 僕は、他者の中に「ある」ものを一緒に見つけ、喜び、肯定しながら共に在りたいと思う。そうした在り方で他者と関わり、「ある」ものに触れるとき、胸が温かく、肩の力が抜けるような感じがして心地が良い。子どもに眼差しを向けるとき、たしかにそのような在り方の手がかりを感じられる。

 そして、そう在ることのできなかった自分の「切実さ」や「頑なさ」を紐解きながら、他者として自分と向き合い、優しく眼差しを注ぎたい。自分の中に「ある」ものも肯定したい。

 

 「好きな人たち」が作る「好きでもない」音楽を聴いて微笑むことができたとき、自分の中に新たな地平が開けるような気がしている。

1歳の娘が保育園で描いた絵(塗り絵)